勇気の缶づめ

灼熱の大地、
どこまでも続く地平線。
ひたすらつづく道。赤茶けた砂。

1990年代初頭、僕はオーストラリアにいた。
SUZUKI DR250Sに乗って。

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漂う死臭。
トレーラーにはねられたカンガルーの死骸。
同じく、牛の死骸。
並走するエミュー。
自然発火のブッシュファイヤー。

見渡す限りの地平線。
日が暮れる前にテントを張る。
日が昇ると目が覚める。
僕の背後に沈んだはずの太陽が、
僕の目の前から現れる。

オーストラリア。

そこに一冊のノートがあった。

南十字星。Southern Cross。
そのノートの名前は、
サザンクロスに引っ掛けて、「サンザンクロースルノート」。(散々苦労するノート。)

オーストラリアを旅する日本人の思いのたけが綴られ、人から人へと手渡される。
いつもどこかを誰かと旅しているノート。
いつから始まり、もう何代目のノートになるのかもわからない。

ノートが一杯になった時に、そのノートを手にしていた人が、
責任をもって日本に持ち帰る。
そして、ノートの記載人たちを日本で収集する。
そんなことになっていた気がする。


そんなノートに書かれていた、
「勇気の缶づめ」。
読んだ時、ハッとして、スッ-と腑に落ちた。
あの時の自分。
  
 

― 勇気の缶づめ ―

  勇気の缶づめを買ってきた

  ずっと使わず、机の中に入れておいた

  ある日、とても落ち込んだ時

  その缶づめを開けてみた

  中になにか書いてある

  「ヨワムシ! ボクニタヨルナ!!」





揺らめく。炎。

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火が燃えるのを眺めていると、ゆったりしてくる。
うっとりしているのかもしれない。

いづれにしても、気分はいい。

寒さが厳しい季節になってきた。
外は、水分があるものが、ことごとく凍る季節。
そんな時期、体を暖めてくれるのが、薪ストーブ。
春から準備した薪の登場だ。

キャンプで焚火をしたときのように、薪ストーブもまた、炎の揺らめきに目が釘付けになる。
体にしみる暖かさを感じながら、炎の揺らめきを眺めていると、なんともリラックスした気分になる。

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最近、薪をくべられるように成長した子供たち。時折薪をくべながら炎をジッと見つめている姿を見る。
「この子は、炎を眺めながら、まだ小さい胸の中で何を想っているのかな。」
なんにも話しかけず、ただただ想いを巡らす。
贅沢な時間。


家の建設途中で、無理やり住み始めた頃、すぐにやったのが、すぐやってくる冬にむけての薪ストーブの設置だった。
部屋の中央に、まだ小さかった長男と一緒に炉台をつくり、煙突をつなぎ薪ストーブを置いた。
もちろん楽しみにしていた初めての火いれ。家の中で火をつける。
慣れてなくて、ちょっと怖かった。いいの?ほんとうに。家の中だけど。

あれから10年。
すっかり火入れには慣れた。薪ストーブは冬の間中、燃えている。

お風呂も薪で沸かしているので、毎日火をおこす。こちらは風呂釜の炎。
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子供達も、だんだん焚きつけが出来るようになり、慣れた手つきで火をおこす。
それでもやっぱり見ていてあげないと、いけないけど。

屋外にも、火をつけることがある場所がある。
石窯(アースオーブン)だ。
こちらは、炎を眺める楽しみより、食べる楽しみのほうが大きいかな。
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火とともに暮らす。というより、火によって暮しが成り立つわけで、子供達にもその経験をさせたいと思ってた。
もっと言ってしまうと、自分がその経験をしたかった。

人類が火と共に進化してきたといわれるように、火は人にとって無くてはならないものだけど、一歩間違えば全てを奪われてしまうほどの恐さもある。
そこのところまでちゃんと身に染みるほど理解しなきゃならない。
やっぱり経験が一番だ。経験しかない。

暖かさをくれる。
その炎の揺らめきで、癒しをくれる。
おいしい物を与えてくれる。

火は「自然現象」だと、何かで読んだけれど、そんな呼び方ではしっくりこない。

火は、恵みだ。
バチが当たらないように、感謝していただこう。

慣れてその感謝を忘れないように。




同窓会 ~なにものでもなかったあの頃~

今回は、いわゆる感想文。
これまで生きてきて、味わったことのない感情、想い。
初めての経験の渦にまきこまれた、約半年間の想いを綴らせてもらいます。

高校を卒業して、あっという間に30年。
その30年経て、初めて開催された同窓会。
その同窓会に参加させてもらった、感想文・・・。
もし、興味があったら。
読み進みください。




今年、ようやく春の気配が漂いはじめたころ、友人から連絡をもらった。

「高校の同窓会があるらしいよ。」

そういえば、高校を卒業して30年。
いつからか、その時代の事を思い出したり、考えたりすることも殆どないし、
あの頃、なにか枠の中に囚われていた感に支配され、早く高校を卒業したいとばかり考えていたわけで、
そんな自分を思えば、卒業以来、高校時代を振り返る機会など無かったかもしれない。
いや、無かったというより、避けていたというべきか・・。
今となっては、よく分からない。

いつも焦るように前ばかりを見て、前へ前へと自分を奮い立たせていた20代。
自分が追い求めるものが見え始めて、そこへ向かって意気揚々と走り始めた30代。
そしてたくさんの幸せや責任を身にまといながら、まだまだ走りたいと思う40代。
それぞれの年代で、それぞれの想い。
いずれにしても、振り返る余裕などなかったよなぁ。

だから、突然現れた同窓会の知らせにも驚きや戸惑いとか感じることもなく、むしろ他人事に近い感覚だったように思う。

高校時代に楽しく一緒に過ごした友達とは、その後年賀状で繋がっていたり、何かの機会に会うことがあったりした事はあった。でも、自分が前へ進むことに懸命だったからか、友達たちもそれぞれの世界で頑張れと想い、またそれを自分の励みにしてきた。
時折聞こえる友達の近況を素直に嬉しく想い、自分もますます頑張ろうと。

みんなもそうだったんじゃないかな。。
みんなもそうやってやっているものだと思っていたし、それが良いのだと思い続けてきた。


今回、同窓会に繋がるSNSがあるというので、何気ない気持ちで参加してみた。

その中には、みんなの嬉しい気持ちと優しさ一杯の言葉が飛び交っていたが、ただ眺めるだけだった。
すでに高校時代を過ごしたあの地を離れ、実家もなくなっている今。
ここ長野県との距離以上に、その世界は遠いものに感じられていたから。

そんな時。
ある時、同級生がSNSにアップしてくれた歴史ある地元のお祭りの写真。
昔、良く目にした風景。

そこからだった。
頭の中のどこからか、もはやあることもないことも認識していなかった記憶が呼びおこされ始めた。

最初は、懐かしい楽しかった記憶。
時に喜々としてめぐる記憶を楽しむこともあった。
ひとしきり懐かしさに身をまかせ、蘇ってくる記憶を楽しんでいたら・・・

次にやってきたのが、封印をしていたかのような負の記憶。
至らなかったあの頃の自分の記憶。
もう忘れていたはずの、思い出したくない記憶。
今ではもう、「若かった、幼かった」で済ますしかないのだけど。

そんなものが芋づる式に、ポロポロと蘇り、自分の中で巡る事に戸惑った。
今更どうにも出来ない事なのに、それでも自分の事だからと向き合ってもみても、そこには答えは当然ないわけで、正直つらいなぁという時期もあった。
なんで今更こんなこと考えなきゃいけないわけ?と。

でも、有難いのかも、と思うようになった。
思いもよらず、今更ながら昔の自分と向き合うことになったが、またそれが当然のごとく、今の自分と向き合うことにもなった。
それが、あの頃から今までの「自分の答え合わせ」をする、そんな時間となったわけで。

「自分の30年の答え合わせ」

今となっては、その事にとても感謝している。
そして改めて教えてもらったと思っている。
あの頃、幼く至らなかった自分に、良いも悪いも関わってくれた全ての人がいたからこそ、今の自分に繋がっているのだと。
その事に気付かせてくれた。
それ以来、無性にみんなが愛おしく思えて仕方がない。


同窓会は、知らせを受けてから半年後の秋の終わりに行われた。
30年の時を経た、でも変わらない懐かしい顔ばかり。
懐かしさと嬉しさのすさまじい熱が溢れた会場は、終始熱が増すばかりの盛り上がり。
かつて経験したことのない感情の渦がうごめく時間だった。

30年の中で、皆がそれぞれの世界で、それぞれの想いで過ごしてきているんだ、と。
そのことを見て、聞いて、そして感じて、感動したなぁ。

みんなが背負ってきた肩書とかじゃあない。
みんなの想いがそこにあったってことに。



同窓会を終えて思ったこと。

人はみんな社会に出ると、自分が思う「何者か」になるために毎日頑張っている。

自分の居場所は自分でつくらなきゃならない。だから毎日頑張っている。

自分の居場所は自分で守らなければならない。だから毎日頑張っている。

自分が誰かの役に立てるように、自分の想いを実現するために、母であるために、父であろうとするために。

自分が「何者か」であるために。

あの30年前にいた場所は、自分が「何者でもなくても」過ごすことが出来た場所だった。

何者でもない人が、そのままで居て許された場所だった。

たくさんの支える、見守る人たちの力によって与えられた場所だった。

あの同窓会の世界は、誰もかれもが、「何者かでいなくていい、何者でもなかったあの頃に戻ることができた」時間だった。
何者かである自分を、後ろに一旦置いて、何者でもなかった自分に戻る許しをくれたのは仲間たちだった。


後で知ったのだけど、今回の同窓会の始まりは、ある同級生の偶然の再会がきっかけとなったという。
それがなければ、あの同窓会の大勢の喜びも無かったかもしれない。
こんな風に自分と向き合うことも無かったかもしれない。
現在の友達とこんな風に再び出会えることも無かったかもしれない。

友人の言葉。「同窓会をきっかけに、様々な関係が30年の時を超えて再生されていく様がいい。」
再び繋がった昔の仲間が、新しい関係の未来を期待する。
ひとつひとつの関わり合いは、やっぱりすべてに繋がっているんだなぁ。

以上、想像通り、まとまりに欠ける感想文。
今回の出来事自体が、そもそも色んな想いが駆け巡ってまとまるものでもなかったことを思えば仕方がない。
と、いいわけするしかない。

・・・と、開き直るしかない。

失礼しました。

と、詫びるしかない。


この同窓会にむけてご苦労してくれた方達には本当に感謝。
本当に有難い時間を頂くことが出来た。
ありがとうございました!


そして、最後まで読んでいただいた方々も
ありがとうございました!

でも、
「自分の答え合わせ」は、まだまだ終わらないわけで。




プロフィール

ててろう

Author:ててろう
山の生活を楽しみたい。
薪割り、草刈り、鳥の声・・。
やることは山ほどあって、生きるって忙しいんだって、そんな当たり前の事を知りました。

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